私はいかにしてシン・ゴジラに絶望を感じるに至ったか

先々週、シン・ゴジラを見てきた。

それまでの自分は、テレビで流れていてもスルーするほどゴジラに対して興味がわかない部類の人間だった。なぜなら怪獣が恐怖の対象になり得ず、作中で逃げ惑う人、立ち向かう人になんら感情移入できない。想像以下の絵作りでしかない。庵野秀明総監督、という釣り書きがなければまず見なかった映画だ。

庵野作品は、実写を含めてほぼ見ている。最高傑作は「ふしぎの海のナディア」の第21話、「さよなら…ノーチラス号」だと思っている。コマ単位で時間を支配できるアニメならではの進行。次点は、ナディアから入って後から見た「トップをねらえ!」の白黒パートあたりか。一方で、実写は毎回期待して見に行っては無言になって帰ってくることが多い。自分の中では松本人志監督作品と同じ扱いだ。

なのであまり期待せず、「作中では怪獣映画という概念が存在せず、怪獣の襲来が完全なる非日常の始まり」という設定だけを予備知識に、シネコンのミニシアターに足を運んだ。土曜日の昼の回は小さい箱しかなかった。夜にならないとシアター1ではやらないのだ。

これはまずい。

というのも、シン・ゴジラに対する最大の不安は「ゴジラに対して絶望を感じられるか」であった。あえて特撮の質感を残したという佇まい。一歩間違えればパロディだ。スクリーンサイズは七難隠す。小さい画面はチープさに拍車をかける。監督は樋口真嗣氏。ローレライで感じた弱点(言われてるよりマシっぽい「ローレライ」について)は以降の作品でも脈々と受け継がれており、期待値が下がる。

見終わってみれば、完全に絶望した。ゴジラは呉爾羅だった。

ここから先はネタバレになる。見ていないなら、レイトショーでも朝の回でもいいので見てきた方が良い。

ゴジラに感じた絶望

コミュニケーションの拒絶

・エヴァで言うと使徒。マブラヴで言うとBETA。太陽の簒奪者の異星人。第一形態の両生類っぽい外観が絶望。第二、第三形態になると話が通じそうな雰囲気をまとい始めるが、航空攻撃に対して即時進化で空中チェレンコフ光な荷電粒子砲をオールレンジ攻撃。絶望しかない。

エネルギー供給源の超科学

・「上陸すれば弱る!」「自重を支えられない!」→歩いてます。この超進化の源泉は元素転換可能な生体反応炉。星間物質ある限り無限に熱量を確保できるので、宇宙に投棄してもいつか復活するであろう。

急激な進化

ゴジラが猛烈な勢いで進化する様を見せつけられた後に、飛行形態の獲得も予想し得るとの分析が突きつけられる。鳥類は爬虫類から分かれたので、翼を獲得する可能性にすぐ思い当たる。しかも単為生殖できるし。空を覆うゴジラ。完成していたの? 絶望しかない。

希望が最大の絶望

・半減期が短いのが希望として描かれる。ゴジラがまき散らした放射性物質は放射能を急速に失う。除染はそもそも除染可能な放射線レベルにまで落ちないと近づけもしないが、これで復興の段取りを付けられる。でも半減期の短い放射性物質はダメ絶対。使える核兵器の登場を招く。この事実が知れたら東京の不思議と化したゴジラ、国連管理の下で研究対象となる安保理決議不可避。絶望しかない。

絶望があるからこその笑い

絶望を感じた後は、観る側はゴジラ絶対殺すマンにならざるを得ない。しかもゴジラと国連との二正面作戦だ。絶望を感じられないと、「ゴジラかわいそう」はまだしも「ご都合主義過ぎる」が先に立って没頭できなくなる。

この予告2はいったん終わった後、最後に絶望の直前のカットでブラックアウトする。この後の惨状を知ってしまった後はもう、絶望しかない。

最終決戦は辛勝ののち、「ホッ」とした印象で幕を閉じる。N700系新幹線(無人)からの無人在来線爆弾が出てくると「笑っていいんだ…」と庵野監督作品であることを思い出してにやける。バスターマシン三号でありドゥーズミーユである。黒幕描写の陳腐さは伝統美である。庵野氏は映像と音の同期にこそ才能を見せる。時間を1コマ単位で支配してみせる。人間ドラマパートは緩急の「緩」であり、急は作戦パートにしかない。

絶望の末の勝利には虚脱がふさわしい。

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